サハラの風

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「ダッダーン!ボヨヨン、ボヨヨン」CM VS 「ルミネ」CM

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まずはこちらのCMから。

 

 

「ダ・ダーン! ボヨヨン、ボヨヨン、ダ・ダーン!」

たくましい外国人女性が雄叫びをあげながら、自らの胸を豪快に揺する。

1990年代前半に放送された、ピップフジモト(現ピップ)の栄養ドリンクのCMだ。

 

懐かしい!!!

ある一定の年齢以上の人達から、そんな呟きが聞こえてきそうだ。

 

「滋養強壮にピップのダダン」

 

何とも直球で下品。びっくりするほどお下劣で単純。

 

極めて女性差別の色濃いこのCMは、当時人気絶頂だったポール牧が振り付けを担当。

瞬く間に日本中を駆け巡り、学校では真似をする子供が続出。

 

結果「ダ・ダーン! ボヨヨン、ボヨヨン」は、その年の流行語大賞・大衆部門の銀賞を受賞することになる。

 

当時を知る人間からは今も密かに語り継がれる、当代を代表するCMだ。

 

 

さてお次は女性差別だと非難轟々の「ルミネ」CM。

 

 

女性軽視、とんでもないセクハラ。

確かに言われてみればそうに違いない。

 

現在は女性の社会進出が進み、会社においても、女性が男性と同等の権利を求める時代になった。

 

結婚、子育て、親の介護、いずれは専業主婦・・・

 

キャリアを積む上ではハンデとなる、女性特有の事情や、女性に対する偏見とも取れる固定観念は、徹底的に封じ込めの憂き目に遭う時代。

 

女性として見られることは、やがては女性特有の問題を連想させる危険をはらむ。

そうした事態を恐れ、女性の武器とも言える「女性らしさ」についても、積極的に封じ込めの対象となった。

 

「今日も可愛いね」は、今や立派なセクハラと認知されている。

 

既にある程度社会的立場を確立している男性と、自らの立場の確立に躍起になる女性。

女性が男性にしても問題にならないことが、立場が逆転しただけで、大いに問題視されるのはこうした事情だろう。

 

話をCMに戻そう。 

「女性らしさ」を少しばかり失い、それを職場の同僚(先輩?)に指摘される。女性は奮起することを決意し、「女性らしさ」の演出には、少々自信のあるルミネが、後押しを約束する。

 

今の時代、こうした構成は完全にNGという訳だ。

 

勿論女性軽視の姿勢は許されるものではない。女性の社会進出著しい現在において、その声が日増しに強くなるのもうなずける。

 

しかしながらあまりにも過剰に「らしさ」を潰そうとする姿勢には、いささか疑問を感じるのも確かだ。

 

どんな色眼鏡を使おうと、やはり男性と女性は厳密に違う。

 

男性には「男性らしさ」、女性には「女性らしさ」があり、良くも悪くもそれを出し合い、時には補完し合うことで、社会は成り立っているのも事実だ。

時には多少露骨にその「らしさ」を刺激しあうことも、必要なように思うのだが、如何だろうか?

 

最後に少し違った観点から。

女性問題に限らず、現代社会は「攻撃と粛清」の時代だ。

出ようとする杭は立ち所にマスコミやネット市民の餌食となり、容赦ない袋叩きの刑に遭う。

ネットの炎上は日常茶飯事となり、テレビでは連日、企業・団体のトップがハゲた頭をフラッシュの前に垂れる。

 

もしピップフジモトのCMが作られたのが現在だったらそれこそ大変だ。

 

下品だ、お下劣だ、差別だ、子供の教育に悪影響だと、方々から非難轟々、バッシングの嵐に晒され、経営陣は執拗なまでに謝罪を求められただろう。

 

ダ・ダーン! ボヨヨン、ボヨヨン、ダ・ダーン! ピップ

 

まさに「一億総優等生化の様相を帯びてきた訳だが、あまり窮屈に締めつけ過ぎるのも、少しばかり息苦しい。 

 

事実良い悪いは別にしてあの頃の世界は、今よりはるかに自由だったし、だから楽しかった。

 

多少のことは「何でも有り」。CMは勿論、何に限らずこのくらいは当たり前だった。

 

確かにルミネのCMが時代にそぐわない一品だったことは間違いない。しかしながら、だからと言って何が何でも全否定はいかがなものか。

 

今の社会のバッシングの有り様は、いささか情景反射的なところがあるように思えてならない。

 

昔とは「時代が違う」と言ってしまえばそれまでだが、そうした時代においては、革新的なものも生まれにくくなる。

 

何より面白くない。

 

新選組は戦いで死んだ隊士より、内部の粛清で命を落とした人間の方が、圧倒的に多い。 周囲ばかりか内部からも強烈に恐れられた所以だが、あまり粛清が過ぎれば、逆に自分で自分の首を絞めかねない。

 

多少の「悪」は必要悪として見逃す、寛大な心を忘れてはならない。「勧善懲悪」が信条の水戸黄門ですら、多少の「情け」は持ち合わせていたのだから。

 

過剰な締めつけからくる息苦しさが生き難さにならぬよう、ほんの少しばかりゆとりのある心持ちを期待したい。