憲法第9条の本質-安保関連法案違憲・合憲問題と政治参加することの重要性

政府が14日に閣議決定し、16日に衆議院本会議を通過した安保関連法案。

野党や国民の反対を押し切って、強引に成立させようと躍起になる法案は、日本の「軍隊」のあり方を、大幅に変える可能性がある。

 

デモ

(Photo by RolandWillaert)

 

新法案をめぐって国民から反発の声が上がったり、野党と激しい攻防戦を繰り広げることは、さして珍しいことではない。

しかし今回の法案の特異さは群を抜いている。

 

進まぬ国民理解

  • 阿部総理や石破茂地方創生相など、閣僚自ら「国民の理解が進んでいないのも事実」と認めている。内容も複雑で、更には自衛隊の「軍隊色」が強まることから、多くの国民がこの法案の成立に反対している。

 

このブログでも以前「法案を審議を審議する前にすべきこと」と題して、書き出した問題点は、残念ながら全く改善されていない。

 

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国民の理解が殆ど進んでいないと知りつつも、強行採決に踏み切ってしまう政府のやり方は、民主主義などとは程遠い、どこぞの北の国の独裁者を見ているようだ。

背景には安倍総理がアメリカ議会演説で勝手に約束してしまった安保関連法案の成立を先伸ばしすれば、世界から信頼を失うことを恐れてのことだろう。

 

「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」

日本人の「お祭り気質」からして、

強引にでも通してしまえば、国民は急速に興味を失い、忘れていくだろう

との思惑が嫌でも透けて見える。

 

違憲?合憲?

  •  最後の最後まで違憲か合憲かの釈明に追われる。

 

長年の憲法解釈を捻じ曲げてまで、合憲として安保関連法案の成立を目指す安倍総理に対し、野党は勿論、著名な憲法学者までもが憲法審査会で違憲との見解を示した。

 

 安倍首相は「我々は合憲である絶対的な確信を持っている」と述べるなど、最後まで憲法をめぐる説明に追われた。

ここまで国会で合憲か違憲かが問われるのは想定外だった。

昨年7月の憲法解釈変更後、首相は自国防衛に限定した集団的自衛権なら憲法上認められると説明。

弁護士出身の自民党の高村氏、公明党北側一雄副代表を中心に、内閣法制局を加えて理屈を練り上げた。政権は万全の理論武装をして法案審議に臨んだはずだった。

 ところが、6月4日の衆院憲法審査会で、自民推薦の長谷部恭男早大教授ら憲法学者3人が「憲法違反」と指摘すると、政権は一転、釈明に追われるようになった。

 自民は「憲法解釈の最高権威は最高裁だ。憲法学者でも内閣法制局でもない」(稲田朋美政調会長)などと防戦した。

 

朝日新聞

 

正直ここまで来ると頭がおかしいのではないかと、心配にすらなる。

日本国憲法の最高権威は最高裁かも知れないが、その憲法とは日本国民のために存在する

その国民の過半数が反対しているのだ。最高裁の権威など知ったことではない。

 

憲法9条って何?

そもそも憲法第9条とは何なのだろうか?

 

日本国憲法第9条

 

先の第二次世界大戦(太平洋戦争)において、日本は連合軍に大敗を喫した。

南方戦線での旧日本軍は尽く全滅し、広島・長崎には世界で唯一原子爆弾が落とされた。大空襲で首都東京をはじめ多くの都市が焦土と化し、沖縄では犠牲の大きい地上戦が展開された。

大半の人間が身内を兵隊に取られ、全ての国民が戦闘や空襲によって、家族や親戚、知人・友人を失った。

食べ物は勿論、ありとあらゆる物資が不足し、国民は貧困にあえいだ。物量の差をカバーすべく、特攻隊は爆弾を抱いて敵艦や敵機に突っ込んでいった。

 

侵略者としての一面も忘れていはならない。従軍慰安婦等の問題がどの様な決着を見るかは分からないが、少なくとも日本がアジア各地に侵略し、多くの人間の命を奪ったことは間違いない事実だ。

 

暗い負の歴史に終止符が打たれ、出来上がったのが世界の憲法史に燦然と輝く憲法第9条だ。

 

「戦争はもう懲り懲りだ!」

 

成立した過程を考えれば、安倍総理憲法解釈など逆立ちしたって出て来ないことなど、火を見るより明らかだ。

読んで字の如く「平和憲法」であり、そもそも戦後を生きる我々が憲法解釈をつけようなどという議論すら、おこがましい。

勿論第9条は、マッカーサーが主導したとされることや、天皇制を守る為の苦肉の策だったなど、発案や成立に複雑な事情があったことは知っている。

そうしたことにいちきちこだわる人間もいるが、ああだこうだと屁理屈を並べ立てたところで、冷静に見れば戦争放棄は一般国民の総意だったと見て、まず間違いは無いはずだ。

 

顔を硬直させながら合憲だと訴える安倍総理を見ながら、90歳の老人が呟いた

「政治全体が、あの頃(太平洋戦争直前)の雰囲気に、そっくりだ・・・」

 

という言葉が頭から離れない。

 

憲法改正

もし安倍総理が本気で安保関連法案を成立させたいのなら、まずは一にも二にも国民にしっかりと内容を理解してもらうことだ。

その後、小手先だけの憲法解釈などで片付けるのではなく、憲法改正へと話を進めるのが筋だ。

 

憲法改正の条件
  • 衆・参両議員会議・・・それぞれの3分の2以上の賛成
  • 国民投票・・・有権者(有効投票)の過半数の賛成

 

上記をもって憲法改正となる訳だが、日本国憲法の根幹を成す条項のひとつを大幅に変更しようというのなら、個人的には間隔をあけて2回くらい国民投票を実施しても良いのではないかと思っているくらいだ。

 

政治参加することの意義

以前「民主主義の盲点~集団的自衛権は反対多数~」で書いた、政治参加しないことが引き起こす悪夢が、現実味を帯びてきてしまった訳だが、今回改めて政治参加することの重要性を思い知らされた。

 

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自衛隊の活動範囲が広がることは、様々な面で国民の負担が増えることを意味する。我々が政治参加することを怠ったツケを、これ以上後世に払わせてしまってはいけない。

幸いなことに今回の安保関連法案は、今まで政治に関心の薄かった多くの若者達が積極的にデモに参加するなど、声を上げるきっかけとなった。

 

国民=政治に関心がない=自分達のやりたい放題

 

長きに渡る国民の政治への不参加が、こうした間違った思い込みを政治家に抱かせてしまった感は否めない。

 

然しながらこれからはそうはいかない。

「政治=国民の為のもの」という正しい解釈と、何より自分達やその子供達の未来を、ひと握りの勘違いした政治家に委ねることのないように、継続して政治に参加し続けることが求められる。

ちなみに本日、安部総理の口から、新国立競技場のゼロからの見直しが正式に発表された。

安保関連法案と並んで政府への批判の的となっている新国立競技場の見直し案を発表したことで、国民のガス抜きを図ろうとしたことは明白だが、騙されてはいけない。

2つともこれはこれ、これはそれとして、しっかり対応していかなければならない問題だ。

 

 

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One Reply to “憲法第9条の本質-安保関連法案違憲・合憲問題と政治参加することの重要性”

  1. 真善美の探究【真善美育維】
    【真理と自然観】
    《真理》
    結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
    “ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
    私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。
    我々の世界は質感。
    また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
    《志向性》
    目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
    『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
    『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
    我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。
    《思考》
    『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
    思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
    『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
    『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
    考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
    《生命観》
    『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
    『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
    生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
    生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。
    *己と自の発展
    己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
    己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
    『志向(作用)→肉体・機構』
    然の理・然性
    自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
    然の理・然性(第1法則)
    然性→志向性(第2法則)
    【世界創造の真実】
    世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
    しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
    言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
    これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
    例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
    そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
    愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
    私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
    しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
    「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
    同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
    「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
    神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
    あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
    【真善美】
    真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。
    善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
    △→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
    千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。
    美は活活とした生命の在り方。
    『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
    予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。
    《抑止力, 育維》
    【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。
    【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。
    真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。

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