サハラの風

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【人の死で飯を食う】葬儀屋の小さなプライド

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「人の死で飯を食う商売」

 

良い・悪いは別として実に的を得た、ごもっともな表現だ。

 

しかし、つくづく葬儀屋というのは因果な商売だ。

 

必要とされるのは決まってひとりの人間の人生に、死という名の帳が下された時と、相場が決まっている。

 

【人の死で飯を食う】葬儀屋の小さなプライド

 

 

そこには遺された大勢の遺族、親族、知人、友人、同僚達がいる。

 

その輪の中心に、我々は神妙な面持ちで歩みを進める。

 

 

人の人生は十人十色だ。

 

天寿を全うした人間もいれば、これからという時に志半ばで、理不尽に奪われた命もある。

 

【人間の命に大きいも小さいもない、皆一様に尊い命だ】

 

そうは言うけれど、やはり若い人の死は格別のやり切れなさを運んでくる。

 

テレビの向こうからは、毎日のように悲しいニュースが流される。

 

娘死亡、高齢者運転の事故…母訴え「運転しても大丈夫か考え直して」

 

2015年12月、さいたま市浦和区高砂町の市道で、公立高校1年生だった同市緑区の稲垣聖菜さん=当時(15)=が81歳の高齢者が運転する乗用車にはねられて死亡した事故。

 

事故は2015年12月23日午後2時35分ごろ、JR浦和駅東口の南東約230メートルの場所で発生。被告は信号待ちの乗用車に接触した後、道路左側を歩いていた聖菜さんを後ろからはねて、死亡させたとされる。これまでの調べに「アクセルとブレーキを間違った」と供述していた。  

 

母親によると、聖菜さんは高校進学後、ダンス部に入り充実した生活を送っていた。事故が起きたのは16歳の誕生日を迎える2日前。

 

意見陳述で母親は「聖菜が帰ってこない現実が重みを増すばかり。実刑にして罪を実感できる環境をつくってほしい」と涙ながらに語った。    

 

公判後、母親は「誰が被害者、加害者になるか分からない。一人一人の意識で事故は防げる。裁判を機に高齢者やその家族が運転をしても大丈夫なのかを考え直すきっかけになってほしい」と願った。  

 

母親は悲惨な事故が繰り返されないように、今後も友人らと社会に呼び掛けていくつもりでいる。  

 

被告は最終意見陳述で、「若い方の前途を奪ってしまい、本当に申し訳ありません。罪の重さを忘れず、懺悔(ざんげ)の日々を送ります」と謝罪の言葉を繰り返した。

 

埼玉新聞

 

「行ってきまーす!」

 

いつもと変わらず、普段通りに家を出て行ったのに。。。

 

突然の事故死、病死、自殺・・・

 

平均寿命からすれば、折り返し地点にも遥かに届かない年齢で旅立った故人を前に、泣き崩れ、錯乱する遺族の姿をいったいどれ程眺めてきただろうか。

 

釈迦は説く。

 

「この世は無常なるもの。常に移り変わるのが三界穢土(この世)の掟であり、故にこの世に【常】などというものは存在しない。」

 

命とて例外ではない。

 

自らの意思とはかけ離れた、強大な力によって与えられたこの命。

 

【奪われる時もまた然り】である。

 

数ある仏教の教えの中で、これ程胸に刺さる教えはない。

 

だからこそ、私はせめて葬儀屋として、【仕事だから】ではなく、【同じ無常の中に身を置く者】として、【心】で送り出しをお手伝いしたいと考えている。

 

それこそが【人の死で飯を食う葬儀屋】としての、ほんのわずかなプライドである。

 

せめて熱い心を持った葬儀屋に巡り合い、心よりの送り出しが出来たことを祈らずにはいられない。

 

故人様に心よりの哀悼の意を示して。。。

 

この記事はサブブログ【葬儀屋バカ一代】で書いた内容を転記しています。

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